わたしの自己肯定感が生まれる前と、あとの話

なぜこの文章を書こうと思ったか

自分にとって、驚くべき変化が起こったと、自覚しているからです。
これから、今の自分の状態と、これまでの自分の状態を比較して書きますが、あまりに違いすぎて、大抵の場合と同じように、自分が一番驚いています。

これを記録しないのは私の人生の上でもったいないな、と思ったから、文章に残します。

これまでの私の状態

序: デフォルトは自己肯定感マイナス

生まれてからおとなになってしばらくは、自覚こそしていなかったけど、私の自己肯定感っていうのはまぁまぁ死んでいました
そもそも持ってたのか、持ってなかったのか、それもわかりません。

とにかく何をやるのも人任せ。人がやれと言ったらやれるけど、自分から何かを始めたくはないような感じです。

付き合った人には全員に「自分がないね」と言われるし、ていうか、自分がないのがどういう状態かもよくわかってなかったです。

世の中のあらゆる他人と自分との境界線が希薄な状態で、
人のやることにいちいち怒って、むかついて、疲れていました。

いつもいつも、すきあらば消えてしまいたいと思っていて、自分は世の中のなんの役にも立っていなくて、でも、できたら誰かの役に立てたらいいな、誰かのために生きていけたらすてきだなって、自分がない状態を他者への奉仕で埋めようとしていた時期。人生のほとんどがこの状態。

破:「死にたい」が洒落にならなくて言えない

もともとなかった自己肯定感が一層洒落にならなくなるのは、長時間労働とパワハラであっさり鬱になって退職した、さらにそのあとです。
家族との関係が悪化した…させて、その他の人とも、自分の尊厳をすべて軽視して、関係を自らぶち壊すようなつながりしか持てなかった頃。

この頃は、今思っても自分の人生の中で最低最悪の時期で、自分ってものがぐちゃぐちゃになりました。ほとんど、自分は他人で、他人は自分だったという感覚が近いです。

死にたさみたいなものはもう洒落にならなくて口にもできなくなっていました
逆に「生きたい」「死にたくない」と思っていたときすらあります。
このままだと死んでしまうと思っていたのかもしれないですね。
自分はなんの役にも立っていないという思考から、自分は人の邪魔しかしない、迷惑な存在でしかないという思考にめでたくクラスチェンジ
世の中は生きづらく、生きづらいのをどうにか自分を削ることでなんとか存在を許してもらえていたと思ってました。
実際は、自分に対してそのような状態だったので、他人に対してはもっともっと踏みにじるような行動をとっていました

ほぼ毎日家の中で嗚咽を繰り返してました。
この頃の自分の心境を多少ポエム的に例えるならば割れる一歩前の水風船とでも言うのがぴったりきます。
なんかあったら割れるし、世の中(水風船の外)と自分(水)の境界線(水風船の膜)がうすすぎて、触れれば揺れる状態ですね。
いちばん家族に迷惑をかけました。

急:急遽生きるのが楽になり自分をみとめる

私としては急に楽になった記憶があるんですが、その下地の状態は少しずつ動いていたのかもしれません。よくなったり、悪くなったりを繰り返しながら。
三歩進んで二歩下がって四歩下がって一歩進むみたいな感じ。

最初は「前ほど落ち込まなくなったかも」という自覚がありました。
そしてだんだん「死ぬまではしなくてもいいかも」という状態になりました。
そのあと、多分変化は少しずつ起きていたんだろうとは思うんですが、自覚としては、ある日突然目の前が爆発したような感覚に襲われました。
世界に色がついた感じっていうのはこういうことか、と気づいたときです。

その日を境に、水風船の膜は分厚くなり、従来なら、自分の心をむちゃくちゃにひっかくような出来事がどんどん平気になっていきました
自分と他人の境界線が明確になって、そしてはじめて、「今までは、それが曖昧だった」事に気づきました。

現在の私の状態

現在の私は、とてもポジティブ。
ポジティブになったあとに出会った人からは、自分の過去の状態を話してもまず信じてもらえません。外見的にも、内面的にも、変わったんだと思います。
そして、これは外からは見えないことですが、本当に一番変わったのは自分に対してのイメージです。

今、私は、自分のことが好きです。
頑張れるときも、頑張れないときも、どちらでも大好き。
なんてだめなやつなんだとか、私さえいなければとか、一切思ったりしません

変わったきっかけ

じゃあ実際に変わったきっかけって何かあるの?ってところです。

行き着いたところで実感した孤独

もしかしたら、これがきっかけかなって思う「自分の世界に色がついた瞬間のできごと」に少し思い当たることがあるんですが、自分以外の相手がきっかけなので、詳細は割愛します。
事情に触れない言い方を使うと、行き着くところまで行って、ああ、もう無理だって実感したんだと思うんですよ。
このまま自分を嫌いになってたら、もう生きていかれない、っていうことに気づいたんだと思います。

自分に嫌われるということの怖さ

他人にどんなに嫌われても、多分生きていけるけど、自分に嫌われたら、もう元気が出ないんだって思いました。
自分自身が自分を嫌うことで起こること。それは、自分を粗末に扱うこと
人間は、よくも悪くも自分からは逃れられません。
どんなに客観視をしようと試みても、主観からは逃れられないように。

物心ついた頃から、自分にそこそこ嫌われてたから、人に好いてもらいたかったんだと思うんです。
でも、好きになってくれるひとに合わせないといけないから自分の形がわからなくなるし、それに他人ってずっと自分のことを好いてくれるってわけじゃないことが多いですよね。
そのたびに好かれていたはずの自分が急に剥かれて嫌いな自分に早着替えしてしまうってことが何度もありました。

最後に自分に頼るしかなかった

それの繰り返しで、ついにまあまあ、十分に疲れてしまって、このやり方は私には無理だって悟りました。
それで、自分を好きになる方向にシフトチェンジっていうか、最後に自分に頼ったんだと思います。
もう私のこと好きになってくれって 頼むからもう許してくれって

自分への頼り方

自分に頼るといっても、そのままの状態だと、頼りなかったです。だから正確に言うと、頼れそうな自分が見えたから頼れるようになった、のほうが近いかも。

自己効力感を高める

習慣づけの話で書いた、自分との小さな約束をこつこつ守ること
最初は笑っちゃうほどスモールステップですが、これは効果があります。
自分はできるんだ、やると決めたことを実行することができるんだという気持ちは、どんなに斜に構えた自分の大人の部分が否定をしても、未成熟な自分の自己効力感には十分な栄養になります。

自分を縛っていたものからの開放

やめる勇気の話で書いた、縛ってたもの から開放するっていうプロセスが、形を変えて良い影響を与えたかもしれないなとも思います。
なにをやるか、なにをやめるかを自分と相談して決めること。
自分にとって、自分は、最大の相談相手だと知ること。

自由になるということ

これら2つのプロセスが、少しずつ自分との関係を育んできたのかな、と今では思えます。 縛られてなくていいんだな、自由になっていいんだなっていろんなことをやりながら、思えたのかもしれません。
もちろん、人に認めてもらってうまる心の隙間もあります。そこを否定はしませんよ。

ただ、全部人にまかせてしまうと、振り回されるんですよね。
周りの人も大変です。

だから自分で土台を作ってよかったな、という感想です。

過去がどうでも今は変えられます

それから、セルフコーチングというのを見様見真似でやってるんですが、その中でモノの捉え方を変えるってことをよくやってみているから(リフレーミングっていうらしい)そういうのもよかったのかもしれないです。
こうして何が良かったかを挙げ連ねても、これだという明確な理由やきっかけは本当にわかりません。わからない上に、私ができたから他人もできるなんて言いたいわけじゃないんです。
こうしたら自己肯定感が出るなんてやり方があれば世の中の人みんな幸せになってるはずですからね。でもそうではない。

ただ。

私には先入観がありました。こういう自己肯定感って、小さい頃からきちんと段階を踏んでしあわせに成長していないと得られないって思ってたんですよ。
だから親のせいとか、環境のせいにして諦めてました。そして、この記事を最初に書いたときから、半信半疑で、ただメンタル的にハイな状態が続いてるんじゃないかってずっと疑ってもいるんです。
でも、もしかしたら、そんなことが起こる場合もあるのかもしれないって思っています
人生なにがあるかわからないかもしれないよって思っています。

世界の見え方が変わった

反転したくらいに変わりました。具体的にいくつかあげてみますね。

環境自体は殆ど何も変わっていない

在宅ワークから会社づとめへの変化とかで、仕事の環境は変わりました。
ただ、生まれる前と後で、なにかすごい存在との出会いとかがあったわけでもなく、年収がバク上がりしたとか、誰かにめっちゃ認めてもらったとか、急にどうにかなったことはなんにもないんです。
でも、自分の捉え方が変わったことで自分の満足度が変わった自覚はあります。

自分と他人の境界線ができる

まずはこれです。

自己肯定感がないとき

境界線がないから、人の言葉を自分の心の奥底まですぐに届けてしまいます。いちいち傷つき、怒り、いい言葉は強烈な快感として自分を狂わせます。
そしてすぐに人を信じ、すぐに裏切られたと感じていました。

自己肯定感があるとき

境界線ができて以降は、真逆。人の言葉を聞きますが、自分の奥底に届ける前に、一旦おいておけるようになりました。傷ついたり、ムカッとすることもあります。褒められて嬉しくもなります。ただ、それが自分の行動のすべての理由とはならなくなった感じです。
人のことをきちんと信じ、裏切られたとかはそんなに感じないですね。

世の中の見え方

これも変わりました。

自己肯定感がないとき

世の中は、搾取されるものでした。
自分が油断をしたら、すぐに奪われる。絶対に弱みを見せてはならない、つけこまれる。だから世の中から離れたい。そう思っていました。

自己肯定感があるとき

世の中は、関わって貢献していきたいと思うものになりました。
自分は世の中に生かされているということもよくわかるし、自分にできることがあるなら提供していきたいと思うようになりました。
世の中に貢献をしたいと思ったことは一生涯ないと思っていたので、この変化は自分にとって恐ろしいほどです。

わたし

なぜか最近は納税モチベもめちゃくちゃ高い。社会に助けられて生きてきた、ということがよくわかってきたので。

自己紹介

自己紹介、できますか?
これは自分と向き合った経験があるかないかというところが大きく影響しているかもしれませんが、自分と向き合うとこんなこともできるんだと思いました。

自分と向き合う前

就活の自己PR欄が苦手。大勢の前で自己紹介することがない
好きなことを人に語るのが苦手。こんなこと誰でもできるだろうと思って、書くのをやめてしまう…などなど。
自分をPRすることがよくわからないので、Webで検索した業種別自己PR例を丸写ししてました

自分と向き合った後

め ち ゃ く ち ゃ 書 け る(笑)
思えば向き合う前は、他人との比較で優れているものを書かなきゃと思ってたんですね。そんなものはどうでもよくて、自分の中での強みを書けば良いんだと知ったのかもしれません。
応募するところのしごとを自分なりに読み込んで、自分はこんなところで役に立てるかもしれない!と思うので、結構スラスラ書けるようになりました。

ブログのプロフィールも、どんな人が読むかな。と思って書き始めたら、なんとか形になりましたね。昔ならこういう書き方はしないで、好きなものとか嫌いなものをダラダラ書いていたと思います。

自分が自分を好きだと強い

誰に何を思われていても、たとえば嫌われていたとしても、自分だけは自分の味方でいるから、結構へっちゃらになります。
実際に嫌われていなくても、「嫌われたらどうしよう」が行動を阻害する理由にはならないという感じです。
それから、何かをするときにも自分からのOKがすぐに出るので、いろんなことにチャレンジしやすいです。

自己肯定感の高い友人が言っていたことが理解できた

以前、自分の友人(自己肯定感ばりくそ高い)がいうことが、ちっともわからなかったんですよ。
私が「嫌なことが勝手に思い出されてつらい」と言うと、「そんなに思い出すことなんてないけどなぁ」って言われたのをよく覚えてます。
えっまじで?嫌なこと思い浮かばないの?ってびっくりしました。その頃は、嫌な思い出強制上映会みたいなのが定期的に開催されてたんですよね。

今はその友人の言うことがよくわかります。
嫌なこと、思い出さなくもないけど、コントロールできないことばかりではないと知ったからかなと思っています。
世の中はトゲトゲチクチクしていて息もしづらく、身動きも自分ひとりでは決められなかったのが、全部ひっくり返ったような、そんな気持ちです。

いつか忘れてしまう記憶の記録

今のこの感動はいずれ薄れてしまうんだと思います。
人間の優秀な特徴、慣れることによって。
実際この文章をリライトしている今も、「こんなだったのかあ」ってどこか他人事のように眺めています。

いい状態に、慣れていいと思います。辛かったことは、忘れていいと思います。
そのまま流してもよかったんだろうけど、今の私にはこの状況が信じられないほどありがたいんですね。ありがたいって思う気持ちが日に日に大きくなってきています。
辛かったあの日々も自分だし、私以外の辛い誰かっていなくなったわけではないから、アウトプットすることにしたんですね。

こんな文章、本当に誰の役にも立つものではないかもしれない。自己満足の文章です。

でも、少なくとも自分は満足している私の役に立っている
だからいいんだ~って思える。

それがどんなに難しかったかを、まだ覚えているうちに、そしてどんなに嬉しいことかをまだ感じられるうちに、文章に残したかったんですね。

それでは今日は、こんなところで。

Profile

Xiuca

神奈川県で夫・ねこ・ねこと暮らす38歳。

くわしいプロフィールはこちら